週刊プレイボーイ1984年12月4日号 「北朝鮮」まで行った旅の仕上り パスポートでは行けない国 せっかく中国の果ての「朝鮮族」の住むあたりまで行ったのだ。 今少し「瑠燵瑠燵」の足を伸ばして、本場の朝鮮にまで行ってみようと考えた。南半分は無理だが(しかし、ほんとうになんで無理なのだろう)、北半分の「北朝鮮」(朝鮮民主主義人民共和国)だ。 これで「瑠燵瑠燵」の旅はけっこうな仕上りを持つことになる。 で、行った。 ・・・と書くと、えらく簡単みたいだが、ウヨ曲折いろんなことがあった上での話だ。 まず、基本のことがらを書いておこう。 諸君のなかには、旅券を持っていられる人もいるだろう。 例のキクの紋章めいたしるしを表紙につけたやつだ。 それを開いてみると、何頁めかに、この旅券は「北朝鮮」に通じないと書いてあるのが目に入るにちがいない。 つまり、それは「北朝鮮」とのあいだには国交がないからだから、これをおかしげなことだときみが考えないなら、 きみはよほどどうかしている。 ここでひとつ、回顧をしておこう。 私が外国旅行を始めたころには、そういう旅券が通用しない国が山とあった。もっともそのころば目的国にしか通用しない旅券しか外務省は出していなかったので「通用しない」ウンヌンの文字はなかったが、数年経つと世界のどの国にも通用するという「数次旅券」の制度ができて私の旅券もそちらのほうになっていた。 「世界のどの国にも通用する」・・・「ただし、以下の国を除いて」。そう書いてあった。 東ドイツも「以下の国」だった。「北ベトナム」がそうだった。 そして、これは忘れずにぜひとも書いておきたいが、ナカソネさんが行き、ミヤザワさんが行き、財界のえらいさんが行き、どこかの県の県会議長が行き、町長さんが行き、「日中友好少年団」の少年たちが行く中国・・・中華人民共和国もレッキとして「以下の国」のなかに入っていた。 その「以下の国」が次々に消えて行った。 ことわっておくが、「以下の国」がぺつに「社会主義国」であることをやめたわけではない。 ただ、それらの国々に対しての日本の政治の方針が変っただけのことだ。「日中友好」を、今日では誰でもとなえている。その証拠にナカソネさんだって叫んでいる。 しかし、そういうことを主張すれぱ白い眼で見られた、いや、ときにはケィサヅのおたずね者にさえなったのは、まだつい十年かそこらの昔のことだ。 それが今はどうだ・・・と、今さら私がここでいきまいてみせることはないだろう。 ただ、ここで、「歴史は変った」などとどこかのテレビの番組の解説者のようなことは言わないでいただきたい。 たしかに歴史は変ったのである。 しかし、歴史は自然現象のように人間の関与しないところでひとりでに変るものではない。 そこには人間の-無数の人間の手が加わっている。その無数の人間の努カあって歴史ははじめて変る。 そして、なるほど、旅券の「以下の国」との関係にかかわって、歴史はたしかに大きく変ったにちがいないが、それでもただひとつ残っている国があって、それが「北朝鮮」だ。 北京からピョンヤンヘ それでも人はそこへ行こうとする。 私もそのひとりだ。ぺつに気負いたって言っているわけではないが、こういうとき、「瑠魔瑠躍」の旅も、歴史を変えようとする人間の努カのひとつにはなる。 北京から「北朝鮮」の首都ピョンヤンまではヒコーキでも行けるが、列車でも行ける。 一週に二度、列車は北京を午後四時四八分に出て、翌日午後三時五五分にピョンヤンに着く。 およそ二四時間の行程だ。北京から天津を経て、一路北上、東北地方に入って藩陽(奉天)を通過するのは午前三時ごろ、それから南東方向を指して下って国境の鴨緑江を渡ってピョンヤンヘ。 「国際列車」である。車両自体がそうで、寝台車は朝鮮民主主義人民共和国製造の、そしてそのマークを車体に輝かせた車だったが、食堂車は中華人民共和国製造、所属の食堂車・・・ただし、これは翌朝国境の町、丹東に着くまでで、あちら側では朝鮮の食堂車に変る。私はタ飯と翌朝の朝食は中国食堂車で食べたが、昼食は朝鮮食堂車だ。 中国と朝鮮を似たような国だと思わないでいただきたい。 二つの国は、中国と日本がちがっているぐらいにちがっている。 鴨緑江はさして大きな河ではない。 列車で鉄橋を渡るのに十分とかからない。 しかし、そのわずかな時間のあいだに世界は一変する。 寝台車にいざ入ろうとすると、先客の荷物でいっぱいだ。 坐る余地もないので内心、文句を言いながらかたずけていたら、荷物の主が二人やって来た。 どちらも若い女性で、訊いてみると、タンザニアの女性たちだ。もちろん、肌色の黒い女性たちである。 「北朝鮮」への留学生だと言う。 東海岸ハムフンの医科大学に留学して、これでもう二年になる。 そのうち彼女たちの伸間の男の学生も来て、にぎやかなことになる。気がついてみると、列車はすでにピョンヤンめがけ走り出していた。 タンザニアから「北朝鮮」へは、医学、農学あわせて三五人の留学生が来ている。 他の国からも来ているというので訊いてみると、ジンパヴエ、マダガスカル、レソト、パングラデシュなどだ。五年留学する予定で来ていて、今は三年目にさしかかるところだ。 夏休みに北京へ出て、大きなテレコを買って来た。日本製のものである。こういうのはピョンヤンでも手に入るが、北京のほうが安いと言う。 切符の検札に車掌がやって来る。朝鮮寝台車なので、もちろん、朝鮮人の車掌である。彼らはなかなかうまく朝鮮語をしゃべる。 黒い肌の人が英語をしゃべっても(私は彼らと英語でしゃべってい た)違和感がないのに、同じ彼らの口から朝鮮語が飛び出してくると奇妙な気持になるのは、こちらの偏見というものだろう。 朝鮮語はすぺて「北朝鮮」に来てから勉強したよし。女子学生たちはハムフンの医科大学の学生だったが、男子学生たちはピョンヤンの医科大学に行っているという。 「どっちの都市がいいかね」 「そりゃ、もちろん、ビヨンヤン」、男子学生(大男だった)が言って笑う。「何もオレがお国自慢することもないが」。 夜になる。彼らと食堂車へ行く。外国人が何人かいる。北京駐在のメキシコの外交官と奥さん。ピョンヤン駐在のキューバの通商代表及ぴ彼の奥さんと十代後半と見えるお嬢さん。 二人は名乗りをあげたので判ったのだが。他にもアラプ人らしい家族が一組食ぺている。すぺて第三世界の人たちである。私以外はそうだ。 第三世界国際列車 この国際列車の「アナウンスメント」は、中国語、朝鮮語、ロシァ語、英語で、そして、その順番でする。 鴨緑江に面する中国最後の都市、丹東に着くまえには、ここには「アメリカの侵略」に対してたたかって倒れた中国人兵士の「烈士」の墓地があるとその四ヵ国語の「アナウンスメント」は教えてくれる。朝鮮戦争のときのことを言っているのだ。あのとき、百万人に及ぶ中国人(たいていが若い人たちだった)が、「抗米援朝」の叫びとともに義勇軍兵士として朝鮮へ行き、「アメリカの侵略」とたたかうなかで倒れた。 私が何故今さらのようにこのことを書くかと言うと、歴史は無数の人びとの努カによって変えられるものであることを言っておきたいからだ。 そして、「たいていが若い人たちだった」と今カッコのなかで書いたのにも、いささか意味がある。私の隣りの車室には中国人夫妻と息子がいてーと思っていたら、しゃべってみると、ご主人はたしかに中国人だったが、奥さんは朝鮮人だった、息子は中学生だったが、もちろん、中朝混血児だということになる。長春に住んでいる人で、奥さんは幼稚園の先生をしている。見ぱえのする人で、もと美人と言ってよいだろう。しゃべっているうちに、ご主人のほうはもと「抗米援朝」の義勇軍兵士だということが判った。兵士として朝鮮に行っていたときに奥さんと知り合った。村に中国兵たちが駐屯していたときに知り合って恋愛して、ウヨ曲折あってついには緒婚にまでこぎつけたというのだから、義勇軍兵士もなかなかしゃれたことをするものだ。 「二人とも若いでしたから」 奥さんはすぺてを説明するように言った。 丹東を出ると、すぐ鴨緑江の鉄橋である。夏の朝の明るい陽光のなか、列車はゆっくり進んで中国から朝鮮へ入る。 みんな窓にとりすがるようにして、朝鮮が近づいて来るのを見ている。奥さんも懸命に見ている。ピョンヤンにお母さんがまだ生きて住んでいるのだどいう。何年ぶりかの帰国である。息子ははじめてで、彼も一心にはじめて訪れる母親の国をみつめている。 十分足らずで世界は一変する。 新義州の駅に入って、もうそこはチョゴリとチマの世界、朝鮮料理の世界である。プラットフォームの建物にかかげられているのは大きな金日成主席の肖像画。 入国手続きのため、列車は小一時間停車。プラットフォームをぶらついているあいだに同じ列車で来たカンブチアの留学生に出会う。タンザニアの留学生としゃべっていると、横から朝鮮語で話しかけてきたのである。朝鮮人とは見えないので、「中国人か」と訊くと「カンブチア」とニツコリ笑って答える。 カンブチアと言っても、ポル・ポト政権の民主カンブチアのほうだが、その政権が今、所在するタイ国境のジャングルのなかから二年半前に出て来て、はるばると「北朝鮮」までやって来た。ピョンヤンの「北朝鮮」一の名門工業大学、金策工業大学でエレクトロニックスの勉強をしているのだという。総勢六人でやって来ていて、四人は朝鮮語の勉強をし、あと一人は軽工業の専攻。 そこまではタンザニアの留学生を介しての朝鮮語-英語の会話でやっていた。 まだるっこしいので私の下手なフランス語に切り替えると、彼もそちらに切り替えて、彼が実はかつてのセネガル駐在の大使の息子であったことが判った。そして、今、父親と母親はどこにいるのか行方知れずだという。 昼食は朝鮮食堂車でとった。タンザニアの留学生、メキシコの外交官夫妻、キューパの通商代表一家、カンブチアの留学生、それから中国人のもと義勇軍兵士と彼の朝鮮人の奥さん、さらには二人のあいだの中朝混血児の息子・・・私以外はすぺて「第三世界」人である。気がつくと、タンザニアの留学生とキューパの通商代表が朝鮮語でしきりにしゃべりあっている。 ここで「北朝鮮」の外交政策をとやかく論じ上げるつもりはない。日本では、「北朝鮮」と言うと、韓国とのからみやら、中国との関係やらでことを論じがちだが、もうひとつ、あの国、世界の現状、未来をちがった眼で見ているところがある。それは言わずと知れた「第三世界」とのかかわりだが、そこにおいての世界認識だが、「北朝鮮」は自分自身をふくめて「第三世界」に世界の未来があ ると考えている」、そこに自分の未来をも賭けようとしている。 その態度は北京からピョンヤンまでの国際列車によく出ていた。言うなれぱ、あれは「第三世界国際列車」だった。 豊かになった「北朝鮮」 実は、私は八年前にも「北朝鮮」を訪れたことがある。 そのときとくらぺて目立ったちがいは、金日成氏の息子さんが正式に「後継者」の位置についたことだが、日本の新聞、雑誌はそのことしか論じ上げないが、もうひとつ大事な変化は、人びとのくらしがゆたかになって、万事にゆとりができてきたことだ。 まず、店に商店が増えた。立派な百貨店もできていて、私はそこでワイシャツを買った。 チェックのワイシャツで、目本へ帰って来てから、これは外国製品「舶来」のものだがどこの国のものかと訊いてまわるのだが、たいていがアメリカと答える。それから、もちろん、イタリアだ。 おまけに私は北京でつくった上衣を着ている。 こちらもなかなか酒落ていて、たいていの人の答はイタリア製だ。下が朝鮮民主主義人民共和国製で、上が中華人民共和国製だとタネ明かしをすると、みんな、いちようにたまげた顔になる。ピョンヤンの百貨店では、もうひとつ買い物をした。 それは小さなオペラ・グラスで、倍率は二・五倍。 けっこうよく見える。デザインもわるくない。。 街のくらしもゆったりとしてきた。 八年前にはなかったものだが、ピョンヤンの市内には地区ごとにレストランができて、人ぴとは気軽に入って食事をしている。喫茶店まがいのものもあちこちにできている。週に二度、水曜と土曜の夜に、また、あれはなんと呼んでいるのか、また、呼んだらいいのか、野外の「ダンス・パーティ」をいろんなところでやっていて、けっこうなにぎわいだ。ダンスは、フォーク・ダンスとディスコ・ダンスの中間というところか。 若い男か、いやがる(と見せかける)女性の腕を取って踊りの輪のなかに引きずり込む。そういう光景を私は何度も見た。 一度はこっちが女性に引きずり込まれて踊らされた。 何しろ歌と踊りのうまいのが天性だという民族だ、矢つぎ早に曲は変って、そしてつづいて、くたくたになった。 くらしがゆったりとしてくれぱ、街に二人連れの姿が目立ってくるのは当然のことだろう。まして、公園などへ行くと、デイトの男女で花ざかりである。以前には、公園でデイトしていたりすると、お巡りさんに「ちょっと来い」、などとやられたりしたというのは消息通の声だが、今はそんなことはなかった。 街路で声をかけても、以前にはたいてい逃げて行ったものだが、今は受け答えする。昔、ならいおぽえた日本語で突然答えたおぱあさん、もいたし、日本語を独学で勉強しているのだという大学生がしゃぺりかけてきた。 もちろん、これらすぺては、私たちから見れぱ、なんでもないことだ。 しかし、考えてもみたまえ。 これだけのゆたかさをとにかく「北朝鮮」は、外国から借金をすることもなく、外国の援助に頼ることなく自カでかたちづくってきたのである。しかも、すぺては日本の植民地化のなかで収奪され、そのあと朝鮮戦争で全域にわたって徹底的な被害を受けたあとでのことだ。 北京からの列車がピョンヤンの市内に入って行ったとき、さっきのもと中国義勇軍兵士の奥さんは私に、 「わたしがここを出て行ったとき、ほんとにここには何もありませんでした」と涙ぐみながら言った。 それは市内のいくつもの高層建築がつらなって見えてきたときだった。 八年前にくらぺても、建物の数は圧倒的に増えていた。 ピョンヤンの遊園地 私には「北朝鮮」に「親類」がいる。 日本からまだ高狡生のときひとりで「帰国」した「人生の同行者」の姉さん一家と、こちらのほうも日本からの「帰国者」だが彼女の遠縁の親類がいて、姉さん一家は東海岸の。元山に住んでいるのだが、遠縁一家のほうは幸いにもピョンヤン市内のアバートに居をかまえている。主は街の写真館の主任で、妹さんは音楽専門学校のビアノの先生、弟二人も仕事を持って、年とったオモニ(母親)とともにみんな仲良く4DKのアパートに<らしている。「人生の同行者」の姉さん一家もピョンヤンに出て来てそこに泊まり込み、私も一夜泊まりに出かけたのだが、小さな子供をまじえての一夜は、手づくりの御馳走と人参酒と日本酒(これは私が持参した)と歌と踊りの一夜だった。姉さん一家の子供(つまり、私のメイとオイだ)は、一番上が女で十八歳の師範大学のピアノ科の学生、次が男の子で十六歳、これは兵隊さんに志願するといきまいていたが(「北朝鮮」では、兵役は義務制ではない)、さてどうなるか。三番目も男の子で十三歳、これは数学者になりたいという。しかし、たしかつい二、三年前にはバレエのダンサーになりたいと言っていた。 総勢十五人がザコ寝した翌日は、遊園地地にジェット・コースターに乗りに行った。 ピョンヤンの市内、郊外にはそういう大きな遊園地がい<つもあるのだが、そのひとつでジェット・コースターに乗った。いや、そのまえに「ゲーム・センター」のようなところで、パチンコ、インペーダー、もぐら叩きなどいろいろやって、それからいよいよジェット・コースターに乗ったのだが、ジェット・コースターの乗り場のプラット・フォームに軍帽がいくつかおいてあった。 何ごとならんといぶかしむ私の眼のまえにひとまわりを終えたジェット・コースターが戻って来た。 休暇で遊ぴに来ている若い兵隊さんが何人か乗客のなかにいて、彼らは帽子が飛んでしまうことをおそれてプラット・フォームに残して行ったのだ。ジェット・コースターがとまるとすぐ、彼らは慌ててプラット・フォームの軍帽を取り上げてちょっと照れたように笑いながら頭にかぷった。(終)